この記事は、愛知県国民健康保険団体連合会発行「愛知の国保」№494(平成13年2月)に掲載されたものを、一部加筆修正してアップしたものです。
「虫屋」という言葉をご存知だろうか?
国語辞典にも広辞苑にもきっと載っていないが、最近、新聞や雑誌などでも時折「虫屋」の文字を目にする。養老孟司、奥本大三郎、やくみつる、鳩山邦夫などの有名人諸氏が自ら虫屋を名乗り、マスコミを通じて虫屋のメッセージを発信している。
虫屋とはもちろん、世間で言うところの「昆虫マニア」である。「マニア」という言葉にはなぜか負のイメージがつきまとうため、虫屋は「虫屋」という言葉を好んで使う。虫屋も専門によってそれぞれ蝶屋、蛾屋、トンボ屋、甲虫屋、カミキリ屋…といった具合であり、私はズバリ、蝶屋である。
結婚して12年が経つ。結婚当初、妻は昆虫はおろか、生き物だの自然だのといった田舎くさいものにはまるで興味がなかった(結婚相手を間違えたとしか言いようがない)。そんな妻が、好奇心からかマレーシアのジャングルにまでついて来たのをいいことに、いつの間にか私の有能な助手に仕立て上げてしまった。それに至るまでの口説き文句は、いつもこれだった。
「新種を見つけたら、お前の名前をつけてやるからな」
今にして思えば、我ながらよくも口から出まかせ(「真っ赤なウソ」とも言う)を真顔で言えたものである。その言葉の意味が、「宝くじが当たったら、半分お前にやるからな」というたぐいの軽口と実は何ら変わりがない、ということに妻がうすうす気づき始めたころ、まさかの奇跡が起きた。―― 本当に新種の蝶を見つけてしまったのだ。
それはまさに奇跡としか言いようがない。なぜなら新種を見つけた場所タイのチェン・マイは、昔から蝶の採集地として「超有名」で、これまでに恐らくは延べ何百人、もしかしたら何千人という採集者が訪れているかもしれないのだ。しかも、時期もベストシーズンの3月というあまりに平凡すぎるシチュエーションに、まさかの思いが強かった。私自身、当地を訪れるのは2回目で、以前に見つけたポイントへ行く道を探していて、偶然その蝶を採集した。ただ、その時は新種などとは思いもよらず、単に「見慣れない蝶を採った」くらいに思った。
帰国後、タイの蝶類図鑑をはじめ手元の図鑑類を調べても載っておらず、ある時、東京の昆虫関係の専門出版社(世の中にはそういう不思議なものがある)に写真を持ち込んで鑑定を依頼したが、「すごい異常型ですね」の一言で葬り去られてしまった。
「同じものを2つ採っているんで、異常型ではないと思うんですが…」と訴えても、相手にしてもらえなかった。金にならない客には冷たいらしい。
月日が経ち、ある時、人づてに鑑定を依頼した専門家(私のような者は専門家から見れば専門家でない)から、「新種と思われる」との返事をもらったときは、小躍りした。
しかし、ここで新たな問題にぶち当たる。妻との約束である。新種ならば妻の名前を付けなければならない。しかし実のところ、命名権は新種の発見者ではなくて新種の発表者にあり、発表には然るべき専門誌に英文で記述して、しかも標本写真のほかに生殖器の解剖図を添える必要がある。一介のアマチュアである私にそのような力量があるはずもなく、つまりは誰か専門家に頼むほかない。しかし、人に頼んで全然別の名前を付けられてしまった日には、それこそ妻に対する私の面目は丸つぶれとなる。こうなれば事情を説明して頼み込むしかない…。
昨年(2000年)5月、発見から5年余の歳月を経て、晴れて妻の名「雅恵」を冠した蝶が新種として学会誌に発表された。私が手放しで喜んでいるのとは裏腹に、妻の方は、これでますます夫の道楽がエスカレートするのではないかと、要らぬ心配をしている様子ではある。
私たち虫屋は長い間、採集することで世間から批判され、あるいは誤解を受け続けてきた。夏休みの宿題に昆虫標本を提出した子どもが学校の先生に叱られた、という話さえ聞かれる昨今である。子どもが昆虫採集をしなくなり、若い虫屋が育たなくなって、虫屋の世界にも「高齢化問題」が深刻になった。世間の風当たりに嫌気がさし、情熱を失っていった虫屋仲間も多い。
しかし、今私が新種を発見したことで、しかもこれまで大勢の人が採集し続けた場所で新種を発見したことで、私自身、「採集すること」「採集し続けること」の重要性について改めて強く思わずにはいられない、そんな今日このごろである。
(2001年2月「愛知の国保」№494より)