かねてから、分布の北限、秋田のギフチョウを採りに行きたいと思いつつ、実現しないままかれこれ10年以上が過ぎた。プチリタイヤした今年こそは絶対に行こうと思い、早くから計画を練った。
名古屋の自宅から秋田のポイントまでは距離にして700km余り。大半が高速道路とはいえ、途中の休憩時間を含めると10時間はみておきたい。仮眠時間を4時間とすると合計14時間。仕事から帰ってすぐ夜7時に家を出れば、翌日午前9時にはポイントに立っていられる計算だ。金曜か月曜に1日休暇を取って3連休とすれば、最初の2日秋田で採集して3日目の朝から1日がかりで帰ってくるか、もしくは2日目の午後に切り上げて中間地点まで戻っておけば、3日目は北信の近辺で採集できる。
準備万端。―― にもかかわらず、出発直前で迷い始めた。天気予報が思わしくないのだ。金曜の夜出発の土・日・月の3連休としたが、土曜は雨でほぼ絶望的、日曜は晴れ間が出るかどうか微妙で月曜がどっピーカン。帰ってくる日が晴れていても意味ないので日程をもう1日後ろへずらしたいのが本音だが、プチリタイアしたとはいえまだ勤め人の身なので、おいそれとそうもいかない。
優柔不断。―― 迷いに迷って決断できない私の背中を、最後は雅恵の一言が押してくれた。
「秋田のギフって、そんなに簡単に採れないんでしょう? 今年は初めてなんだから、下見のつもりで行けばいいじゃない」
26日(金)夜7時前に出発。いざ、秋田へ! 勇んで出発したまではいいが、待っていたかのようにパラパラと雨が降りだし、名古屋ICで高速に乗ったとたんに本降りになった。助手席で雅恵がタブレットで雨雲の動きを調べている。
「ゲリラ豪雨が近づいてるみたいね。なんだか私たちが行くほう行くほうへと、この先ずっと雨雲がついてくるみたいよ」
小牧JCT付近で、ワイパーが効かないほどの豪雨となった。時速50kmまで減速しても前がしっかり見えない。夜の高速を走ること自体が久しぶりなのに、いきなりの豪雨。しかもこの時間帯まだ交通量が多くて、ハンドルを握る手に思わず力が入る。
私 「やめて帰ろっか!」
雅恵「ダメよ、お義母さん玄関のアームロックしてるから家に入れないわ。インタホン鳴らしても、きっと用心して出ないわよ」
私 「そのときゃ車中泊だな、自宅のカーポートで」
幸い多治見IC付近でゲリラ豪雨からは抜けたが、この先長いというのに、のっけからどっと疲れた。こんなんで無事秋田へたどり着けるのかと不安になる。
その後もずっと雨は降り続き、東名高速→中央道→長野道→上信越道→北陸道→日本海東北道と、夜の雨の高速を走り続けた。途中、夕食休憩を含む3回の休憩を挟んで500km以上を走破し、村上市(新潟県)の道の駅上林(かみはやし)にたどり着いたときには午前2時を大きく回っていた。意外にもまだ余力はあったが、調子に乗ると翌日に差し支えると思いここで寝ることにする。シートで寝たのでは疲れが取れないので、後部座席を倒してフルフラットにし、マットを敷いて寝袋で本格的に寝る。この寝床作りに時間がかかり、歯を磨いたり少しだけ着替えたりして横になった時にはすでに午前3時だった。雨で予定よりだいぶ遅れているので、睡眠時間を削って3時間とし、午前6時にアラームをセットした。
爆睡3時間。アラームで起床し、寝床を片付けて車を運転できる状態に戻し、近くのコンビニで弁当を買って朝食を済ませ、道の駅に戻って歯を磨いて朝のお勤めを済ませたら、出発は7時になっていた。ここから目的地まではまだ200km近くある。
こうして、目的地である矢島町ブナ谷地のポイントに着いたのは予定の午前9時を大きく過ぎる10時15分頃だった。でも、依然として小雨が降ったり止んだりの天気なので、全然焦っていない。とりあえず傘をさしてブナ林の中を歩いてみると、拍子抜けするほどあっさりとオクエゾサイシンが見つかった。しかし、出発前は正直フライングを心配していたのに、これって葉が開きすぎだよね。というか、辺りはすでに初夏の季節感で、晴れたらギフよりもミヤマカラスアゲハが飛びそうだ。
と、そこへ、よいこの蟲の会のY氏から電話が入る。秋田行きについて事前にメールしておいたので、タイミングよく電話をくれたのだった。聞くところによれば、やはりもう少し標高を上げたほうが良さそうだ。もっとも、「秋田ではギフとミヤマカラスが一緒に飛ぶけどね」とのことではあったが‥。
ポイント周辺はなだらかな斜面が広がっていて、地形図で見るとどこも同じようでつかみどころがない。傾斜が緩やかなため車だとあまり「登ってる感」がないが、ゆっくり進んでいくとみるみる季節が変わってきた。Y氏に対して「残雪なんて全然ないよ」と言ったがウソっぱちで、少し進んだら林内に点々と残雪が現れた。どうやらこの付近が季節的にも良さそうと判断し、車を停めて探索することにする。雨は何とか上がったが低温で寒く、雲が低くて日差しなんて期待できるわけもない。この日は下見と割り切っていたので、雅恵を車に残して一人で周辺をブラブラする。途中、昼食のために車に戻ったときに雅恵が「私はどこにいたらいい?」と聞くので、「そこの道かあっちの道でいいんじゃない?」と気のない返事をした。どこにいても今日は無理と思った。
午後1時過ぎ、予想外の日差し! 昼ごろから厚い雲の切れ目から小さな青空が顔をのぞかせてはいたが、その雲の切れ目と太陽の位置が重なることはないと思っていた。ところが、急に風向きが変わったと思うやみるみる雲が動き始め、小さな雲の切れ目が奇跡的に太陽のある場所にたどり着いた。空の9割近くが雲に覆われているのに、太陽のあるその場所にだけ雲がなかった。この逆は何度となく経験しているが、こんなのは初めてだ。そして、日差しが出るとみるみる気温が上がり、いれば絶対飛ぶと信ずるに足るコンデションになっていた。
全身の五感を研ぎ澄ませ、いたら絶対に見逃すまいと神経を集中したが、何事も起こらないまま15分ほどで再び曇ってしまった。がっかりして車へ戻りかけたそのときだった。向こうの方に停めてある車のところへ、雅恵があたふたと戻って来る姿が見えた。荷台からトラップをひっつかんで、もと来た方へと走っていく。すぐに雅恵の後を追って走った。
雅恵が興奮した口調で説明してくれた。
「さっき日差しがあったときに、そこの木の上からギフさんが地面に降りたの。あんまり小さくて弱々しかったから蛾かと思って近づいたら飛んじゃって、そこの梢に上がったの。それっきり降りてこないのよ。だから日が陰っているうちにと思って、いま車にトラップを取りに戻ったの。間違いなくギフだったわ」
そうか、やっぱり飛んだか。デカした。よく見つけた。その場所にトラップを仕掛け、しばらく待つ。祈るような気持ちで待ったが日は差しそうにない。同じ場所に二人いても仕方ないので、この場は雅恵に任せて私はほかの場所へ行くことにした。
およそ30分後、再び日が差した。今度は10分足らずで曇ってしまい、願いも虚しく私の前に女神が現れることはなかった。いちるの望みを託して雅恵のいる場所へ戻ると、なんと! 採っていた。それも2頭も。
雅恵「さっき日が差したときに降りてきたの。でも振り逃がしたらどうしようと思って、すごいプレッシャーで、採ったときは『これで帰れる!』と思ったわ。そしたら、またすぐ次が出てきたの。ねえ、2頭も採ったんだから、もう帰ろうよう」
私 「何言ってんだ。俺はまだ見てもいない」
雅恵「何やってんのよ。早く採りなよ」
私 「うるせー」
この日の矢島町のポイントは、天気予報が悪かったせいか採集者は他に1人しか見かけず、その人が採れていたかどうかは知らない。そして翌日の日曜は、予報が前日よりもましな「曇り」だったため大勢の採集者が来ていたが、予報が悪い方に外れて「曇り時々雨」の天気で、おそらく全員討ち死に。午前10時過ぎに一瞬日差しがあったとはいえ文字通りの一瞬で、気温も低くて寒かった。
ところで、秋田のギフは天気でハマることが多いという。山形までは晴れていたのに鳥海山だけ降っていた、という恨み節を聞いたことがある。この手の話はとかく尾ひれはひれが付いていそうだし、不利な情報は信じたくないので話半分に聞き流していた。ところがどうだ、今年2017年の矢島のアメダス観測所の観測データを調べてみて驚いた。
日にち |
最低気温 (℃) |
最高気温 (℃) |
降水量 (mm) |
日照時間(h) 9:00-15:00 |
予想採集適否 |
|
5月 | 23日(火) | 12.9 | 27.1 |
0.0 |
4.6 | ○ |
24日(水) | 15.3 | 20.1 | 5.5 | 0.0 |
✕ |
|
25日(木) | 14.5 | 21.7 | 7.5 | 0.0 | ✕ | |
26日(金) | 13.1 | 23.7 | 8.5 | 0.2 | ✕ | |
27日(土) | 13.1 | 20.4 | 6.0 | 0.3 | ✕ | |
28日(日) | 10.8 | 18.7 | 0.5 | 1.7 | △(実際は✕) | |
29日(月) | 8.6 | 25.9 |
0.0 |
6.0 | ◎ | |
30日(火) | 12.3 | 25.8 | 0.0 | 2.7 | △ | |
31日(水) | 14.1 | 28.7 | 0.0 | 5.1 | ○ | |
6月 | 1日(木) | 16.2 | 19.7 | 7.0 | 0.0 | ✕ |
2日(金) | 13.3 | 17.5 | 12.5 | 0.0 | ✕ | |
3日(土) | 10.4 | 14.7 | 8.0 | 0.4 | ✕ | |
4日(日) | 9.9 | 12.5 | 12.0 | 0.0 | ✕ | |
5日(月) | 7.2 | 17.1 | 1.0 | 3.9 | △ |
ただし、矢島観測所はギフのポイントよりもずっと標高の低い麓にあるので、山の上ではもっと気温が低く、もっと雲がかかりやすく、日照は短いと考えられる。実際、私が行った2日目の5月28日は、データは9:00-15:00の日照時間が「1.7時間」となっているが、当日のポイント付近の日照は午前中は5分に満たなかった。そして、昼頃から本降りとなって諦めて下ってくると麓では日が照っていたが、何のことはない山の上は相変わらずぶ厚い雲の中だった。
今年の矢島町のギフの採集シーズンはおよそ上記の2週間だったとして、うち雨の降らなかった日(降水量0mmの日)はご覧のとおり4日だけ。普通、梅雨時でももう少し晴れるんじゃねえ?と思わず突っ込みを入れたくなる。気温や日照時間を考え合わせると、採集日和は5月29日と31日だけ。23日は標高の低い場所なら発生していただろう。
これじゃあ、梅雨時にヒサマツの採集日和に当たるよりももっと確率が低い。こうして改めて見ると、27日に雅恵が2♂採集したのは奇跡に近い。というか、2♂はそこそこ新鮮な個体だったが、いったいいつ羽化したというのか。もし、事前にこの数字を見ることができたなら、きっと27・28日で秋田くんだりまで行くことはなかった。
現地の環境は私の想像とかなり違い、ブナ林は思いのほか少なく、写真のように低木林の中に高木がまばらに生えている場所が目についた。これは伐採後の森林が十分回復していない状態と思われ、低温、豪雪、冬場の日本海からの季節風の影響を考えると、森林の回復に長い時間がかかることは容易に想像できる。
話は変わって、近年マレーシアでは各地でジャングルを伐採して道路を建設しており、伐採したジャングルが十分再生せずにブッシュになっている光景をよく目にする。
上下2枚の写真の景色に、どこか共通するものを感ずるのは私だけだろうか。
ところで、秋田のギフは小型であることが特徴として知られる。通常、蝶は分布の北限で大きくなり、アサギマダラやツマベニチョウ、モンキアゲハなどは、北限に当たる日本の個体はマレーシアなど熱帯地域の2倍近くに巨大化する。これは暑いと脱皮を制御するホルモンの働きが活性化されて短期間で蛹になってしまうため小さな個体となり、低温だとその逆で大きくなるというわけだ。近年、岐阜県美濃地方など太平洋側の低地で採れるギフチョウに矮小個体が目立つ気がするが、温暖化による高温の影響で説明できる。
ところが、これだと北限の秋田のギフが小型であることの説明がつかない気がする。それに、見たところ個体数に比して食草は有り余るほどあるので、エサ不足ということでもなさそうだ。今回たった2日の経験から感じたことは、この地はギフチョウが生息するのにギリギリの条件なのではないか、ということ。つまり、豪雪のため雪解けが遅くギフの発生は5月下旬から6月上旬になってしまう。しかしこの時期はすでに日が高く日照時間も長く、晴れればかなりの高温となる。ギフの幼虫が育つ6月中下旬から7月ともなればなおさらのことだ。この高温こそが、秋田のギフが小型になる原因だろう。でもそうして考えると、雨天が多いからこそ過度の気温の上昇が抑えられ、ギフの幼虫が育つ環境がかろうじて保たれているのではないだろうか。
と、薀蓄(うんちく)をたれたあとで話は変わって、写真の巨大イタドリ。名古屋周辺で見るのと比べると2倍近い大きさのように思うが、これはいったいどういうことだろうか? 植物のことはよく分からん。
聞くところによると、現地では前年に採集をめぐる地元とのトラブルがあって、あわや採集禁止というところまでいったらしい。詳細については、私はすべて又聞きなのでここでは記さないが、今後行く人のために最小限の注意喚起をしておきたい。
現地で問題になっているのは採集者のマナー、特にそのうちでもトラップがやり玉に挙がっているらしい。公道沿いに平気でブルートラップをベタベタに仕掛けて、これが問題になっている。このことについて、蝶屋の中にもトラップの是非を論じている人がいるようだが、少し的外れな気がする。そもそもマナーとは、相手を不快にさせない心遣いなのだから、相手が不快に感じているならその時点で明確なマナー違反である。不快にさせた非を詫びてすぐさまやめるべきだ。誤解を恐れずもう一歩踏み込んで言えば、不快に感じさせない方法でやればいい。
2017年5月27日(土) 同行者 雅恵
秋田県由利本荘市矢島町ブナ谷地 ギフ 2♂(雅恵採集)
2017年5月28日(日) 同行者 雅恵
秋田県由利本荘市矢島町ブナ谷地 ギフ null
(2017年7月16日)