この記事は、BUG №75(2011年12月18日)に掲載されたものを、一部加筆修正してアップしたものです。
4年ぶりに海外へ採集に行くことになった。以前は毎年のようにというか必ず毎年行っていたので、4年ぶりというのは個人的にはかなり感慨深いものがある。かつては採集品の展翅が終わり標本の整理や記録の整理が終わると(終わらないうちに)またすぐ次に行ったりして、多い年には年3回というようなことを20年来続けていた。だから4年振りというのは、「随分間が開いた」というより「しばらく止めてしまっていたことを遂に再開した」という感慨があった。
きっかけは、勤続25周年のリフレッシュ休暇として、たった3日間という、馬鹿々々しいくらいほほえましいほどの休暇をいただけるという話だった。かつて経営破綻した日本長期信用銀行は、勤続10年で30日間のリフレッシュ休暇があったと聞いた(だから破綻したんだな、きっと)。有給休暇だって繰越分を含めて丸々40日近く残っているというのに、何が3日だ、ふんッ!と、初めは鼻で笑っていたけれど、あらかじめ休暇の適正かつ有効なる取得計画を提出せよとのおせっかいなお達しを頂戴して、ふと我に帰った。そうか、リフレッシュ休暇は取れるのではなくて取らなくてはならないのか。それも漫然と消化するのではなくて、きちんと計画的に取得しなくてはならないんだ。あらかじめ計画を提出するのだから、あんまり恥ずかしい計画は出せないな…。
とかなんとかいう口実で、この3日間の休暇と土日をくっ付けて、5日間で久しぶりに海外へ行くことにした。東京のアートパピヨン 三浦正恒氏に現地で合流して案内していただけることになり、行き先は、これまで行ったことのないボルネオのサバと決まった。
だが、日程を組み始めてすぐに気付いた。ボルネオはマレー半島と違って5日間ではやや無理がある。そこで、ついでに振休もプラスして6日間で行くことにした。6日間の行程のうちキナバル山周辺での採集は3.5日。最終日は昼過ぎには採集を切りあげなければならないが、どうせ熱帯の採集では昼からはスコールが来て実質採集は午前中だけ、ということも多々経験しており、正味3.5日といっても4.0日と大差ないと考えた。
しかし、計算どおりに物事は運ばない。結局、計画した帰りの夜のフライトが満席で取れず、帰りの便はコタキナバル午後4時10分発になった。当日は日曜日で、渋滞も考えるとキナバルのホテルを正午には発たなければならず、つまり最終日の採集はフライトの都合で断念せざるを得ないということになってしまった。
しかし、それだけではなかった。出発直前になって超大型台風が関西国際空港を直撃する様相となり、出発便が飛ぶかどうか危ぶまれるうえ、仮に飛んでも名古屋から大阪への新幹線が止まる恐れが出てきた。そうなる前に大阪まで行っておこうと前夜仕事を終えてから大雨の中を急きょ大阪へ向かい、夜遅くに関空近くのホテルに転がり込んだ。― 予定外の前泊。この時点で、足かけ7日の日程で現地採集3日間だけという、あまりに悲しい旅程となっていた。
翌日の出発便はなんとか3時間30分以上遅れながらも無事?飛び立ち、キナバル山麓クンダサンのホテルにやっとこさ到着したのは予定より3時間遅れの明け方3時だった。旅装を解き、明日の(今日の)採集の準備をし、こんな時間でも雅恵は律儀にシャワーを浴びている。睡眠時間は僅か2時間余り。だけど、遂に来た。やっと来た。明日は(今日だってば)頑張って採るぞー! と思ったら、くたくたのはずなのに興奮して眠つかれなかった。
<2011年7月 キナバル採集行程>
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日付 |
発着 |
行程 |
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1日目 |
7月19日(火) |
19:00頃 |
23:00頃 |
職場からタクシーを飛ばして帰宅、そのタクシーでJR駅へ。深夜、臨空タウンのホテル着 (臨空タウン泊) |
2日目 |
7月20日(水) |
14:30 11:00 |
20:10 16:40 |
MH053便は3時間30分遅れて関空発、KLへ |
22:10 19:00 |
0:45 21:35 |
予定のMH2606便には乗れず、3時間以上遅れてMH2626便でKL発、KKへ |
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1:00 |
3:00 |
送迎の車でKKからクンダサンへ (クンダサン泊) |
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3日目 |
7月21日(木) |
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キナバル周辺にて終日採集(3日間) (クンダサン泊) |
4日目 |
7月22日(金) |
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5日目 |
7月23日(土) |
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6日目 |
7月24日(日) |
12:00 |
14:15 |
送迎の車でクンダサンからKKへ |
16:10 |
19:40 |
MH2609便でKK発、KLへ |
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23:45 |
7:15 |
MH052便でKL発、関空へ (機内泊) |
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7日目 |
7月25日(月) |
8:00頃 |
12:00頃 |
関空から名古屋の自宅へ |
※ KLはクアラルンプール、KKはコタキナバル
こうしてやっとの思いでたどり着いた憧れのキナバルだったが、3日間は過ぎてしまえばあっという間だった。予想したこととはいえ、シジミは非常に少なく、タテハも多くなく、多いのはシロチョウ、ジャノメ、セセリといったところで、完全燃焼とまではいかなかったが、それでもたった3日間でボルネオ特産種7種を以下のとおり採集・観察できたのだから、まずは上出来と言うべきだろう。
ボルネオキシタアゲハ Troides andromache 1♀観察
キナバルミカドアゲハ Graphium procles 3♂
キナバルカザリシロチョウ Delias cinerascens 3♂
ペルキダルリモンジャノメ Elymnias pellucida 2♂
アモエナコジャノメ Mycalesis amoena 1♂1♀
アミサコイナズマ Tanaecia amisa 2♂
キアナウラフチベニシジミ Heliophorus kiana 4♂1♀
左上:Delias cinerascens キナバルカザリシロチョウ ♂裏
右上:Elymnias pellucida ペルキダルリモンジャノメ ♂表
左下:Graphium procles キナバルミカドアゲハ ♂表
もっとも、ボルネオ特産種は90種以上いるとのことで、7種なんていうのはほんのさわりでしかない。特産種の中でも代表的な美麗種キナバルオナガタイマイやボルネオカザリシロチョウ、ボルネオスミナガシの♀なんてのも是非とも採ってみたかった。
しかし、欲を言い出したら切りがない。いい場所だった、また来よう。そう思って最終日はじたばたせずに午前中のんびりパッキングして、ホテルのレストランで早めの昼食をゆったりとり、正午に送迎の車でコタキナバルへ向かうことにした。
宿泊していたホテルはクンダサンの町外れの高い丘の上に建つ。ペルカサホテルと言えば蝶屋の間ではかなり有名なので、これを読まれた方の中にも利用した人もいるかもしれない。ホテルの建つ丘の上は、自生か植林か不明だが周囲をカラマツに似た針葉樹の高木に取り囲まれているため眺望はない。しかし、道を少し下ると目の前にキナバル山がその威容を現すベストビューポイントがある。キナバル山の頂は雲がかかりやすいので、雲がかかる前の朝にうちに写真を撮っておこうと思い立ち、朝食を済ませた後に雅恵と二人でカメラを持ってホテルの前の道を下りていった。
眼前にそそり立つキナバル山の威容は、まさに霊峰キナバルの面目躍如たるものがある。しかし、目の前に広がる大パノラマの中、キナバルの山懐の広大な高原は、高原野菜の一大産地として痛々しいほど徹底的に開発されているのが見てとれる。かつてそこを覆い尽くしていたであろうジャングルは、皆伐され跡形もない。そしていま自分が立っている丘の中腹も、開発し尽くされた高原の一連にあって、周りはマツのような針葉樹やススキがやたら目につくつまらない場所に思えた。
感動とともに一抹の寂しさとやり切れなさがない交ぜとなり、とりあえず写真だけ撮ったからホテルの部屋に帰ろうと思った、まさにその時だった。何気なく振り返った私の背後の切り立った斜面に、なにやら大型のシロチョウがふわーと飛んできて止まった。デリアスだ! 少し高さがあって良く分からないが、ボルネオ特産の稀種で、数あるデリアスの中でも最美麗種の一つとも言われるボルネオカザリシロチョウDelias eumolpeのように思える。まさかこんなところにD. eumolpeが?という思いが強かったが、何せ初めて見るのでD. eumolpeか否か100%の自信はないものの、デリアスであることには間違いない。
3秒だけ迷った後、雅恵にここで見張っているよう言い残して、ネットを取りにホテルの部屋へと走った。急な登りの坂道を駆け上がり、ホテルのロビーを何食わぬ顔で通り抜け、廊下を早足で歩いて部屋へたどり着き、長竿とネットと三角缶をつかんで部屋を飛び出した。いまごろとっくにどこかへ飛び去っているだろうな、と頭の片隅では思いながらも、ホテルの前の道を一気に駆け下って戻ってくると、雅恵がまだ元の場所で立っていた。
雅恵:さっき飛んだの。すぐに止まったけど、どこに止まったか分かんなくなっちゃった。
私 :ダメじゃないか、ちゃんと見張ってなきゃ! ハァー、ハァー、ハァー、ハァー。
情けないことに、息が切れてそのうえ膝が笑いかけている。あの付近に止まったはずと言われた辺りを舐めるように凝視するが、デリアスの姿は見つからない。なんてったって派手ないで立ちなのだから、止まっていればすぐ分かるだろうに、と思って長竿を伸ばしかけたその時、件のデリアスは不意に飛び立ち、真っすぐ私のほうへと向かってきた。慌てて振ったネットは無情にも空振り。あっという間に私の頭上を通り過ぎ、谷のほうへと消えていった…。
雅恵:あーあ、逃げちゃった。残念ね。ほら、あきらめて帰りましょう。
私 :ダメだ。立ち直れない。
息が切れて足元がふらついていたのがそもそもの敗因だった。と、どんなに言い訳しようとも、はっきり言って、恥ずかしいくらいイージーだった。
しかし、いつの日もあきらめが悪く往生際の悪いのがこの私の唯一最大の長所なので、1頭いたら必ず2頭目がいると信じて付近を探し始めた。道は山腹に刻まれた乾燥した舗道で、付近にデリアスが集まりそうな花もなく、周囲にはススキや灌木が生い茂っているだけでとてもじゃないが環境が良いとは思えなかった。
でも、やっぱりいた! 向こうのほうから、ちゃんと2頭目がやってきた。今度こそ慎重にネット。見込みどおりのD. eumolpeだった。しかし、残念なことにボロボロの♀。こうなりゃ2頭目がいたんだから必ず3頭目がいるはずと、気を取り直してさらに探した結果、3頭目、4頭目を見事ゲットした。今度こそ鮮度の良い個体で、しかもうまい具合に♂♀で1ペア揃った。
この日は当初の計画では半日採集する予定だったのが、フライトの都合で泣く泣く採集をあきらめたのだった。帰るためだけの1日となって、まさに帰ろうとしたその瞬間に、どこからともなく、ひらーりと舞い降りたような幸運だった。
出発前にホテルのレストランで、早めの昼食をとりながらくつろいでいた。ふと見ると、ホテルの中庭をDelias eumolpeが飛んでいく。
「何だ、こんな所にもいるんじゃないか。所詮デリアスなんて、本格的なジャングルよりかえってこんな場所にいるものなんだよね」
このとき既にビールを飲んで出来上がっており、上機嫌で余裕をかます私であった。
(2011年12月18日「BUG」 №75より)