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私の尊敬する人(4) ― 人生の蹉跌(さてつ)

 父の名は「啓蔵」。しかし、晩年、父がときおり好んで「鶏三」の文字を当てていたのを私は知っている。奇抜な当て字に子ども心にも違和感を覚えたし、母が嫌っていたこともかすかに記憶している。当時は、この当て字を使う父の気持ちなど知る由もなかった。

 両親は見合い結婚で、結婚当時、父は名古屋市水道局に勤務する公務員だった。いまほど結婚相手を決めるにあたっての「公務員」のもつ意味など欠片(かけら)もなかった時代だったとは思うが、母の証言によれば、母は実家が農家で子どもの頃から野良仕事に駆り出された辛い思い出しかなかったため、「サラリーマン家庭」というのは憧れだったらしい。

 ところが、結婚してほんの数年で父は名古屋市を辞めてしまう。そして、こともあろうに、農業の道へと進んだのだった。母としては渋々了解するしかなかったのだろうが、母から言わせれば、それはある種の「結婚詐欺」にも等しい行為だったかもしれない。いまでこそ脱サラで農業を志す青年実業家がマスコミに取り上げられたりもするが、「脱サラ」などという言葉もなかったであろう昭和30年代初頭に、父は脱サラして農業青年実業家を目指した。

 父が始めたのは養鶏業である。私がもの心ついたころのわが家はすでに養鶏農家で、家の前には大きな鶏小屋があった。金網のケージの中に沢山のハクショクレグホンが飼われており、朝から夕方陽が落ちるまでコーコーコー、カーカーカーと騒然としていた。鶏小屋へ入れば鶏糞の臭いはもちろんのこと、配合飼料に混ぜるために巨大な鉄鍋でぐつぐつと煮立っている魚のアラが鼻を突く異臭を放っていた。鶏糞と魚のアラと鶏と配合飼料と血と土埃が混ざり合ったような、一種異様な臭いが辺りに立ち込めていた。鶏小屋の足元にはネズミが走り、物凄い数のキンバエやイエバエがいて、隙間だらけの家の中にも当然のように入り込んだ。

 時おり、病気で弱ったりして卵を産めなくなった鶏を父が絞めてくれて、これをさばいて水炊きにして食べるのがわが家の一番のご馳走だった。鶏の首をはねて、血を抜くために家の前の道の電柱に逆さに吊るす。熱湯をかけて羽をむしり取り、丸裸になった鶏を父が台所でさばいている姿をよく見かけた。

 私がもの心ついた時から当然のように目にしたこれらの光景は、いまにして思えば、実は私が生まれるほんの数年前に、全て父が(もちろん母も手伝って)自らの手で一から築いたものにほかならなかった。父の実家は農家でもなんでもなく、こうした技をどこで学び習得したのか私は知らない。多くは独学で学び、手探りで試行錯誤を重ねながら築き上げたものだったと思う。 沢山いた鶏も、最初はほんの小規模で始め、だんだん増やしていったに相違なかった。

 ところが、こうしてようやく軌道に乗り始めた父の養鶏業は、あまりにもあっけなく終焉を迎える。 私がちょうど小学校に上がった頃には、鶏小屋は跡形もなくなっていたと記憶している。だとすると、父の夢への挑戦はたった10年足らずでついえたことになる。どうしてそういうことになったのか。母の話を総合しても、苦労はあったにせよ当時すべてがそれなりに順調だったはずだ。そう、たった一つの誤算を除いて…。

 当時の自宅周辺は名古屋市内とはいえ完全に郊外で、田圃と畑と雑木林が広がる、いまで言うところの里山だった。それでいて、ガタボコの砂利道を軽トラで少し走れば街に出て、市場があり、配合飼料に混ぜる魚のアラを入手でき、産みたての鶏卵を売ることができた。

 その自宅周辺に、あっという間に津波のように開発の波が押し寄せてきた。高度経済成長期の宅地造成である。田圃は埋め立てられ、自宅の前の山はブルドーザーに削り取られてひな壇となり、区画整理が進み、やがて新しい家がどんどん建ち始めた。里山風景の中に溶け込みつつあった父の養鶏場は、新興住宅地の中の迷惑施設に変貌しようとしていた。

 もちろん、もっとずっと郊外の別な場所へ移転すれば問題は解決したかもしれないが、それを許さない事情があった。

 父は三男だが兄二人がさっさと家を出てしまったため、親の面倒を見なければならない立場にあったらしい。それが面白くなかったのか親と衝突して家出し、結婚前、父は寺に間借りして独り暮らしをしていたという。母と結婚した後もしばらく同じ部屋で新婚生活を送っていた。せめてアパートを借りればいいと思うわけだが、きっと父には事業を興す夢があったので、アパート代を節約した。見かねた母の実家が家を建てるようにと資金を出してくれて、寺の広大な敷地の一角を借りて新居を構えることになった。数年後には土地を借り増しして、この場所で養鶏場を始めた。

 家というものは底地があってはじめて財産になる。借地の上に建てた家は持ち家であって持ち家でない。仮に売り払おうにも、地主以外の誰にも売ることができない。売れないものは担保にもならないので、家を担保に金を借りることもできない。そのくせ固定資産税だけは一人前かかってくる。

 売ることの叶わぬ家がこの場所にある以上、ここに住まうほかないのだ。こうして、母の実家が建ててくれた新居によって、父はこの土地に縛り付けられることになった。

 子どもの頃、酒に酔った父が私に向かって「先見の明」という言葉を時々口にしたのを覚えている。その言葉の意味を漠然としか理解できない私は、父の思いなど知る由もなかった。

「お父さんにはなあ、先見の明がなかったんだ」

 先見の明を持って始めたつもりの養鶏業が、まさに足元の土地の問題で足元をすくわれて頓挫した。「鶏三」の文字には、そんな父の無念と未練がにじみ出ていた。

 

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コメント: 2
  • #1

    朝礼を聞いて訪問した58歳 (木曜日, 12 3月 2015 21:33)

    お父さんとの思いで楽しく読ませていただきました。文才あるね。
    それにしても、奥さんとの顔の大きさ、違いすぎだね。

  • #2

    近くの後輩41歳 (金曜日, 13 3月 2015 20:35)

    お父さんとの思い出、素敵ですね
    私も若い頃の父のことが頭に浮かびました
    まだ現役で、お前にゃまだ負けんといってますけどね
    また、寄らせてもらいます!