今朝の中日新聞1面と社会面に、名大平和憲章 30周年の記事が大きく報道された。
突然ですが、ここで昆虫少年の知られざる生態について少し。学生時代は当然のこと蝶々ばかりを追い回していたのだろうというと、さにあらず。意外にも(?)平和運動に関わっていた。
私が名大に入学した82年当時は世界では東西冷戦が厳しさを増していた時代で、アメリカにレーガン政権があり、日本には中曽根政権があり、東西超大国の軍拡競争が激化して「核戦争3分前」とさえ言われていた。そんななか、学内では第2回国連軍縮特別総会(SSDⅡ)に学生の代表を派遣する運動が盛り上がっていた。
一方、学内には、「平和学講座」の実現に取り組もうというもう一つの小さな動きがあった。当時の私は、「平和学」という言葉にハッとするものを感じた。平和とは何か。世界中の多くの人が平和を願っているはずなのに、なぜ軍拡競争から抜け出せないのか。純粋にそういう思いからこの運動に加わった。
運動といっても、実態は私を加えてほんの3-4人の学生と、教職員組合からたった1人が加わっているにすぎなかった。そしてその中の学生の一人に、名古屋昆虫同好会の重鎮で後に国立東名古屋病院長を務められたI氏(故人)のご子息がいた。彼とは平和問題について熱く語り合ったが、ついに昆虫談義をすることはなかったように思う。
平和学講座は地味に成功した。記憶はすでに曖昧だが、確か連続8回ぐらいの講座で、教養部の講義室を借りて、毎回違う先生にそれぞれの専門分野から平和に関わるテーマでお話をいただいた。日本史、経済史、文学、社会学、物理学・・。しかし、広い講義室が満員盛況になることは遂になかった。
私にとっての平和学講座の取り組みは、ただそれだけのことだ。ところが、思いがけない展開がこの後に待っていた。私が教養部から経済学部に進んだその年に、教養部(当時)の正規のカリキュラムの中に「平和学」の授業が組み込まれたのである。私たち学生の取り組みに賛同し協力してくださった先生方が中心となり、今度はこれを正規の授業として取り上げたのだった。私たち学生の願いも実はそこにあったが、本当に実現するとは正直思っていなかっただけに驚いた。今は廃止されてしまった教養部は、学問が戦争に利用され、大学が戦争に加担してしまった過去の歴史の反省から戦後始まったと聞いた。その意味で、心ある教養部の先生方の間に「平和学」への賛同が広がったのだと思う。
驚きの展開はさらに続く。私が大学を卒業したおよそ1年後、冒頭の名大平和憲章が制定されたのである。私の在学中すでに学生自治会を中心に平和憲章制定の動きはあったが、盛り上がりは正直いまいちで気をもんでいた。学生が発案し、教職員を巻き込んだことで大きく結実したのは、あのときの平和学講座と同じ道筋である。軍学共同を明確に否定し、学術研究を通じて主体的に平和を希求することを謳った名大平和憲章は、その後物理学や化学の研究分野でノーベル賞受賞者を輩出し、航空工学科など最先端の研究を担う名大で制定されたことにとりわけ大きな意味を持つ。そしてそのルーツは、あのときのわずか数名の、草の根の取り組みにあった。
コメントをお書きください